手と手をとって 前編
『エル、エル、ぼくが大きくなったら、ぼくのおよめさんになって』
『月くんは可愛いですね、きっと大きくなったらとても格好良くなるでしょうね。でも私はお兄ちゃんですからお嫁さんにはなれません。お嫁さんは好きな女の子になってもらわないと』
『いやだよエル。ぼくはエルのことしか好きじゃないんだ。ほかの子なんてむりだよ。ねえエル、いいでしょう?ぼくだけのおよめさんになって』
『……そうですか。そうですね、では月くんが大人になって、それでも約束をずっとちゃんと覚えていたら、いつかお嫁さんになりましょう』
『本当エル?ぜったいだよ。ぜったいやくそくだよ』
『ええ、約束です月くん』
『エル、エル、大好きだよ!』
そう言って笑った彼は、今私を腕にしっかり抱いて、髪に、頬に、瞼に、惜しげもなくくちづけを降らす。あれからもう何年も経つ。
幼い頃、私の面倒を見てくれていた亘理という老人が病に倒れ、以前から懇意にしていた夜神家に養子として迎えられた。私が貰われて間もなく夫人が懐妊し、翌年男の子が生まれた。それが彼、夜神月だ。彼こそが実の息子であるうえに、みすぼらしい風体の私と違って輝かんばかりの美貌の持ち主であると言うのに、夫妻は私たちを等しく扱い、惜しみない愛情を注いで育てくれた。お陰で何の不自由も鬱屈もなく成長し、私は日々早く恩返しができるようになりたいと思っていた。
月くんは貰われ子の私にも良く懐き、とても慕ってくれていた。兄、とは呼ばれなかったが、いつもエル、エルと後ろを付いて回っていた。幼子のプロポーズは戯れとはいえ、余りに真剣な眼差しに応えてやりたいと思い約束をした。彼がどういうつもりで言ったかは解らないけれど、私は今でも約束を果たすつもりでいる。物証が無くても、何一つ忘れない私の脳がきちんと記憶しているのだから。
幸いな事にしばしの闘病生活の後、亘理氏は回復して日常に戻った。私を戻す戻さないの話は暗黙の了解の様に誰の口からも出なかった。
それから何年か経って、月くんが中学に上がる前、私が成人した冬に、夜神夫妻は交通事故に巻き込まれて他界した。私たちは二人きりの兄弟になってしまった。恩返しの手立てを失った私は呆然とし、けれど彼を立派に育てようと心に決めた。月くんは二、三日は動揺していたが、翌明け方に私の部屋を訪れ穏やかな目で『大丈夫、早く大きくなって、僕がエルを守る』と、そう言った。
私はあの時、月くんの為に生きようと誓ったのだ。
ただ、亘理氏と夜神夫妻の間の取り決めだったようだが、夜神夫妻に何かあった場合の遺産は月くんに、その時私は生家の名前を継いで家を相続すること、となっていたらしい。慣れ親しんだ彼と同じ名字を捨てるのは残念だったが、夜神の遺産を継ぐのは彼の他にあり得ない。私は二十一歳を持って姓を竜崎と改め、亘理氏が私の後見人になった。今でも亘理氏は私たちの様子を見に時々夜神家に遊びに来る。彼の焼いてくれるケーキが飛びきり美味しくて、氏の来訪を待ちわびている私が月くんには面白くないようだが。
少女の様に幼かった月くんも随分背が伸びて、男っぽくなってきた。まだまだ少年の域を出ないけれど、将来が楽しみになる容姿は昔より一層際立っている。
変声期を終えて中学時代を終え、彼はもう高校生だ。
私から見れば十七歳など子供も子供だが、この頃の男子なんて異性にばかり興味がある時分で、自分より七つ年上の兄になど構っていられないものと思うのだが。
……どういう訳か、彼は依然私にべったりで、暇さえあれば抱き締めてきて少しも離れようとしない。このところ彼の性的嗜好に少し不安を抱いている次第だ。
自分の弟と言う事を考えても申し分ない容姿をしている彼は、言うまでもなく女の子にとてもモテる。学校で手紙やプレゼントを渡されるのは毎日だし、玄関先に訪ねてくる子もいるし、彼の登下校をこっそりつけているストーカーじみた子までいる。家に匿名の電話がかかってくるのもしばしばで、全部入れるとあまりにも頻繁でうんざりするほどだ。なのに、彼は全く彼女のいるそぶりを見せない。
確かに彼に見合う女の子を探すのは大変かもしれないし、慎重で賢い彼の事、下手に彼女を作ってその子が標的になるのを恐れているのかも……?と色々考えてみるのだが、どうも彼は女性に興味が無いようなのだ。こんなに美しい彼がゲイだなんてまさかと思うけれど、でも自分にべったりな現状を鑑みると否定も出来ない。聞いてみてもいいのだけれど、なんとなくその手の会話は彼の機嫌を損ねそうな気もしている。直感だけれども。
「エル。エルの髪はさ、真黒でぴんぴんしてて硬そうなのに、こうして手で梳くと意外と柔らかいんだよね。量が多いから寒いところの生き物みたいで凄く可愛い」
「そうですか?」
「うん。ほら、ふわふわしてるだろ?後でお風呂で洗ってあげるよ。二、三日別に入ってただろ?僕が洗わないと手抜きするんだから」
「髪くらい一人で洗えますよ」
「そんな事言ってちゃんとやらないくせに」
「……バレましたか」
くすくすと笑い合うこの時間は私もとても好きだ。だから手放したいと思っている訳ではない。出来れば彼の機嫌は損ねたくない。怒るとコレで怖いのだ。
温かい腕にふわふわといい気持になってくる。もうすぐ追い抜かれそうな身長と、これはとっくに追い抜かれている体格の良さで、彼の身体にすっぽりと包まれる。どっちが兄なんだかと苦笑したくなるけれど、この状態は彼の自尊心をくすぐるらしく機嫌が良い。彼が良いなら別に私も拘らないので、現状はそんなに悪くないなと私は思っている。
「こんな事言うのもなんですけど、月くん。最近勉強はどうですか?試験も近いでしょう?」
「あはは、エルが聞く?珍しく保護者らしいね」
ぎゅうぎゅうと抱き締められている保護者が何処に居るのだろう。……と思うけれど、彼の機嫌は依然良い。
「中間期末の試験なら何とも思いませんよ。どうせ一番なんでしょう?でも私が言っているのは」
「入試でしょ?解ってるよ」
「……どうなんです」
私の髪に顔をうずめながら笑うので少しくすぐったい。困ったなぁと呟くので、何か問題あるのかと彼の方を向こうとしたら、またぎゅうと強く抱かれて息が詰まる。
「困ったねホント。エルに信用ないのかな僕」
笑う声に慌てる。
「そんな事ありません、私はいつだって月くんを信頼してます。けど、偶には私だって心配する振りくらいしないと格好が」
「そっか、そうだね。でも心配しなくていいよ。全国模試も一位以外取ったことないから。エルの弟らしいだろ?」
「……なんだ、そうなんですか。がっかりです」
流石としか言えない答えに安心して文句を言う。
「なんだって何さ、褒めてくれないの?」
「だってつまらないじゃないですか。月くんが優秀だとお兄ちゃん面出来ません。解らないところがあったら教えてあげますって言いたかったのに」
つまらなそうに言えば、彼はますます嬉しそうな声を出す。
「エルが家庭教師してくれるの?だったらもうちょっと手抜きすれば良かったかも。ココもココも解りません、エル先生……って、ね。ん、ほらこっち向いて」
「あ、……ん、ん、月くん……ん」
話の途中で急にその気になったのか、本格的なキスが始まる。戯れにあちこちに落とされたキスとは違い、唇に施されるねっとりとしたくちづけ。唇と歯列を割って、赤く滑らかな舌が滑り込んでくる。
私は彼のキスにとても弱いらしく、触れるだけならともかく、舌を使われると眩暈がするほど感じてしまう。零れる吐息の全てを絡め取るようなキスに、呼吸もままならない位に溺れてしまう。
大体兄弟でおかしいじゃないか。……と、そう思う。
けれど、これは私が許した事であり、彼が望んだ事だ。
約二年前、十六歳になる彼は、誕生日プレゼントに何が良いか問うた私に、
『エル、僕はエルが欲しいんだ。エルの唇にキスする権利を頂戴。いつしても、どれだけしてもいいって許可が欲しいんだ。他の誰にも触らせないで、僕だけにキスして』
と、懇願した。
確かにそれまでキスみたいな事はしていたけれど、彼の事を考えて唇へのキスはずっと巧みにかわしていた。やはり、と言うか、聡い彼は当然気付いていたらしい。
どうしたものかと戸惑ったが、真っ直ぐな目で『エルを頂戴』と言う彼に、私はあっけなく陥落した。『いいですよ、月くんだけにあげます』と返した私に、彼は貴公子の様に笑んでキスをくれた。蕩けるほどに甘いくちづけは、初めてだった私をとろとろに溶かして何もかも解らなくさせた。
それからというもの、驚く位傍若無人に、場所も状況も周囲の目も憚らずにキスの雨だ。流石に恥ずかしくて苦言を呈したら、じゃぁ人に見られないように、と言いながら、見ていなければ傍に居てもするようになった。電車の中だとか、喫茶店の角の席だとか。見られるよりは幾分マシだけれど正直気が気ではない。段々外出が減り、彼といる時間は室内でのみ過ごすようになってきたが、どうやらそれも彼の策略であったらしいと後から気付いた。
『エルは何処にも行かないで、何もしなくていいんだ。僕が全部してあげる。誰の目にも映っちゃ厭だ』
そう笑った彼に、驚きのあまり暫く言葉もなかった。
「……ん……ん、ンム、ん……ちょ、らい、とくん」
「ん……何?」
「……く、るしい、です、も、離して」
放っておけば何分も、下手すると何時間でも続いてしまいそうなキスを、いつものように私が根を上げる事で中断してもらう。故意では無いのだが、どうしても息継ぎが上手く出来なくて呼吸困難になってしまうのだ。
「また?本当エルは可愛いね。いつまで経っても慣れなくて」
そんな事を言う彼はご機嫌だ。ぷは、と離れた唇に濡れ光る唾液を楽しそうに舐め取って、首を竦める私の耳を愛撫する。上がった息を整えながら、くすぐったさにびくびくと肩を揺らすと、感じやすいと彼がまた揶揄した。全く、我が弟ながらどういう神経なのかさっぱり解らない。こんな年上の、しかも見目もよろしくない痩せっぽちを捕まえて、可愛い、愛してる、好きだ、とキスの出血大サービスだ。その辺の彼のファンである女の子たちがこれを食らったら、ものの五分で彼の下僕の出来上がりだろう。使いどころを間違っていやしないかと思うのだが。
キス攻撃から逃げないと身が持たない、と判断し、彼の唇から逃れている隙に、さも今思いついたように「あっ」と叫んで見せた。
「そうだ月くん、試験と言えば、それが終わればすぐお誕生日ですね」
「ん?ああ、そうだね」
私の言葉に彼がにっこりと微笑んでくる。
「何か欲しいものはありますか?私に用意できるものなら何でも言ってください」
彼の笑顔につられて私も微笑むと、彼は十七歳らしく相好を崩して「何でもいいの?」と確かめた。もちろん何でもいいに決まっている。だって彼の十八歳の誕生日だ。十八と言えばこの国では大人として色々なことが認められる年齢だ。成人に続いてとてもめでたいのではないか。免許でも取るつもりならば車の一台や二台は用意するつもりだ。それくらいは稼いでいる。「勿論です」と強く頷くと、彼は二年前の時と同様こう言った。
「じゃぁエル。エルがいい。エルを頂戴」
驚くほど何でもないことのように言われ、拍子抜けしたような、なんだか胸騒ぎがするような気分になり一瞬唖然とした。
「……月くん。私なんかじゃなくて、その、何かないんですか?車とか」
「うーん。他に欲しいものなんてないし、あっても自分でどうにでもできるしね。車はいいなぁとはちょっと思うけどさ。エルはエルにしか貰えないから」
ね、駄目?と、私の前髪をすっと通った鼻筋でかき分けて額にキスしてくる。
「断るものでもありませんが……こうしている以上に月くんのものになんてどうやって……」
なればいいんだ、と言おうとしてはたと気付いた。まさか。
「……」
「あはは、気付いた?そうだよ。僕はそういう意味でエルが欲しいんだ。もう何年も待った」
綺麗な琥珀色の瞳が、とろりと私を捉える。身体に巻きついた腕がゆるゆるのTシャツの裾を捲りあげて侵入してくる。
「あの、駄目。……駄目、です」
「どうして……ねえ、いいだろ?欲しいんだ、エル」
額や瞼や頬にキスの雨を降らせながら、どうしようもなく甘ったるく、それでいて切羽詰まった声で囁いてくるのにくらりとする。
「どうしてって、月くんも私も男性ですし……その前に兄弟で、だから、その……」
するすると上ってくる手を必死で押しとどめる。私がそう返すと解っていたのか、彼は感情の波を感じさせない声で普通を装いながら私に言い募る。
「キスだってしてるし、こうやって抱きしめてても?」
「それとはレベルが違います。ちゃんと貴方を想ってくれる女性と恋愛して、それで」
「エルは僕を想ってくれないの?愛してない?」
「そんな訳ありません。私はいつだって月くんを想ってます」
怒りもしないし、声もいつも通りやさしい。……けれど、私には彼の必死な気持ちが何故だかとても良く解った。
「じゃぁ何がいけない?子供ができないから?戸籍上で結婚できないから?社会的にタブーだから?だから何?」
「でも、月くん」
構わない。本当は私は何一つ構わない。だって彼の為に生きると決めたのだ。月くんが望むなら何だってしてあげていいと思っている。私もどこかでそれを望んでいる。
けれど彼の両親にはどうだろう?合わせる顔があるだろうか。夜神家唯一の跡取り息子が、養子として育てた男と恋仲になるだなんて。それこそ恩を仇で返すようなものではないのか?私が彼を誑かしたのだろうか、真っ当な道から外させたのか。その通りかもしれない、あの時妙な約束をしたばっかりに彼の成長に良くない影響を与えたのかも、と自答してショックでぐらぐらした。
けれど彼はまっすぐな目で、
「僕はずっとずっとエルだけ見てきた。初めてエルを認識した時からずっと、他でもない自分の意思で。他の子になんて興味ないんだ。キスもセックスもそりゃ誘われたけど、エル以外だなんて触る気も起きないよ。エルだけがいいんだ。僕の世界にエル以外に意味のあるものなんてない」
きっぱりとそう告げて、混乱と後悔に流れ始めた私の思考をぴたりと堰き止める。
「……月くん……」
……どうしよう、少し感動しているのかもしれない。目頭が熱い。
「父さんや母さんの手前どうしたら皆が幸せになれるか考えてたんだ。僕は一生エルの弟で居るべきなんだろうって。……でももう父さんたちはいない。僕はあの朝決めたんだ。離さない。僕の全部でエルを守る。エルを愛してる」
私の迷いや混乱を一刀両断にする力強さで、月くんが私の心と感情に斬り込んでくる。
愛おしくて仕方ない存在にこんなに想われて、愛されて、それが嬉しくない人間なんているのだろうか。束の間マイナスに転びかけた思考が、彼の揺るぎない告白によって浮き立つような歓喜に替わる。
乱れ飛んでいた思考がすとんと落ちて、なんだそうだったのか、と納得した。
――――私も彼を、愛している。彼のように。
「ねえエル、誕生日まで待つ。僕はまだ子供だから我儘言えない事くらい解ってる。でも十八になったら男は結婚できる年齢なんだよ、エル。そしたら一度きりでも……いいんだ。エルを抱かせて」
黙ったままの私に不安になったのか、饒舌だった彼の言葉尻が濁って掠れた。彼らしくない力ない声が、彼の想いの強さを物語っているようで胸がきゅうとする。
「……一度きり?ですか」
そんな事を提案するなんて本当に彼らしくないけれど、諦められない、でも無理強いもしたくないという彼の想いや優しさを伝えて、なんだか嬉しくなってしまった。
「……エルが嫌ならそれっきりにするよ」
その一回きりも承諾されないのだろうと言う口調で、溜息交じりに彼が言う。息をついて、
「――――馬鹿にしないでください」
そう告げた私に、彼は「エル……」と、絶望を思わせる声を出した。
「一度きり抱かせて、貴方の想いを有耶無耶にするほど、私は非道じゃないつもりですよ、月くん」
俯いてしまった顔をついと上げさせ、頬を掌で包む。私の言葉を数瞬咀嚼した彼は、ややあってから
「エル……! じゃぁ」
と叫んで、美しい琥珀色の瞳を何度も瞬かせた。
「月くん。その先も、ずっとずっと先も、大事にしてくれるんですよね?」
「勿論だよ」
「私しか、見えないんですよね?」
「ああ、そうだよ」
どうしよう嬉しいと囁いて、彼がまた私をきつくきつく抱きしめる。腕のあまりの強さにそこから溶けてしまいそうで、熱い息が零れる。
「……昔の約束を覚えていますか」
「何?約束?」
怪訝な顔をする彼。それはそうか、だってもう十年以上も前の話だ。無理もない。自分の子供っぽい思いつきに思わず笑みが漏れる。
「いえ、いいんです。では月くん、二ヶ月ばかり早いですが、早速誕生祝いと行きませんか?」
ふふ、と笑って耳に息を吹き込めば、
「えっ、い、いいのっ?」
とあからさまに狼狽する。
「……だって……月くんのここ、さっきから凄いです」
かたく熱くなったそこを、手の甲ですっと撫で上げたら
「ちょ……エル!わっ」
と素っ頓狂な声を出した。さすがは十七歳だが、もしかするとさっきの口調からして彼は初めてだ。
「ん、楽しみ、ですよ。月くん」
「ああもう、好きだ!大好きだよエル」
我武者羅に抱きしめられて息をするにも苦労する。けれどこの腕の強さと熱さこそ心地いい。
愛おしい弟がいる生活から、愛おしい恋人のいる生活に変化する毎日を楽しみにしつつ、彼のベッドになだれ込むべく熱い熱い口づけを交わした。
end
後編へ続く